山脈に抱かれるような場所にある村は、畑に適した平地があまりない。
また、奥深い森がすぐそばまで迫っているために、村は狭い耕作地でほそぼそと生計を立てていた。 北の地にあるため森は背の高い常緑樹が多く、昼なお暗い鬱蒼とした雰囲気になっていた。「何よ、これ! 私にこんな所に住めって言うの!?」
『領主の館』に到着して、シャーロットは不満の叫びを上げた。エゼルも呆然としている。
そこはひどく古めいた建物だった。2階建てで、大きさだけならば貴族の邸宅と言えなくもない。 ただしひと目見て分かるほどに荒れ果てていた。 石造りの壁はところどころが崩れ、枯れた雑草が顔を覗かせている。放置しておけば今年も元気に芽を出すだろう。 古臭いテラコッタの瓦葺きの屋根は、遠目に見ても破れ目があった。 庭の手入れも一切されていない。まさに荒屋である。 わがままお嬢様のシャーロットでなくとも、逃げ出したくなる有様だった。「シリト村にようこそ。王子ご夫妻様」
あばら屋、もとい領主の館のまえに2人の人影が立っている。
年配の男性が一歩前に出て、あまり丁寧とは言えない礼をした。「私はオーウェン。王都より派遣され、執事の役を務める者です。こちらはメイドのメリッサ。
私ども2人と村人たちの手を借りて、ご夫妻のお世話をいたします」オーウェンに示されたメリッサが、やはりやや雑なお辞儀をした。黒髪にくすんだ青い目をした、愛想のない娘だった。
「執事にメイドがたった1人!? そんなので暮らしていけるわけないじゃない。衣装係は? 入浴の付き添いと美容係は? こんな幽霊屋敷でメイドが1人だなんて、どうするの!」
シャーロットは興奮して言い立てたが、オーウェンは涼しい顔で受け流した。
「さてはて。雨露がしのげる家があり、多少の人手もある。これ以上、いったい何を望むと言うのです」
「だから……!」
「シャル、もういい、やめろ。僕は長旅で疲れた。早く休みたい」
エゼルがうんざりとした口調で言った。
「では、こちらへ。ご夫妻の居室については、最低限の修繕を済ませておりますので」
馬車の御者から荷物を受け取り、オーウェンは歩き始めた。
館の内部も見た目と違わぬ荒れっぷりだった。ところどころの雨漏りが、床に水たまりを作っている。ぴちょん、ぴちょんと水音がひっきりなしに響いていた。 エゼルとシャーロットは濡れた床を踏み、湿った階段で足を滑らせそうになりながら、案内された部屋に入った。 オーウェンの言葉通り、その部屋は他の場所よりだいぶマシだった。少なくとも水たまりはないし、壁の破れ目から外が見えることもない。少しばかり薄汚れていて、壁の汚れが人の形のようで不気味なだけだ。 一応はベッドも整えられている。ただし少々、カビ臭い寝具だったが。「着替える。旅装は肩が凝って好きじゃない」
エゼルは言って腕を伸ばした。王宮で暮らしていた頃は、こうすれば侍従たちが服を脱ぎ着させてくれたのだ。
ところがオーウェンとメリッサは知らん顔。 エゼルは戸惑った。「着替えると言ったんだが」
「着替えならばそのトランクにございます。エゼル様のお好きなものをどうぞ」
「……え」
メリッサに冷たく言われて、エゼルは固まった。彼は生まれてこのかた、1人で着替えをしたことがない。トランクを自ら開けて服を選ぶなど想像の外だった。
「無礼者! 王太子たるエゼル様になんて口をきくの!」
気色ばむシャーロットにオーウェンが肩をすくめる。
「もう王太子ではございませんな。辛うじて王子ではありますが、ここは王宮ではない。この程度のことは、ご自分でされますよう」
そう言って執事とメイドは出て行ってしまった。
唖然とするシャーロットに、エゼルがおずおずと声をかける。「シャル。着替えたいんだ。やってくれ」
シャルロットも普段、自分の手で着替えなどしない。ただ彼女は華やかなドレスが大好きで、手ずから胸に当てる程度のことはしていた。
だからトランクを開けて服を選ぶくらいのことはしてやった。 エゼルが王宮で着ていた、プライベート用の衣装だ。ゆったりした袖のシャツにズボン。 夫に頼まれて、シャルロットは憤怒の形相で服を着せてやり、エゼルも途中から自分の手を動かしてボタンを留めた。 けれども2人がかりでも、フリルのネクタイをきれいな形に整えたり、細かなカフスをいくつもつけるのは無理だった。夫婦は疲れ果ててベッドに座り込んだ。
やがて夕暮れ時が過ぎて夜になった。 薄暗い中で明かりの灯し方も分からず、シャーロットとエゼルがやきもきしていると、メリッサがやってきて部屋を明るくしてくれた。 メリッサが持ってきたのは、魔道具のライトだった。王都で流通しているものよりずいぶん古い型である。「お腹がすいたわ。晩餐はまだ?」「まだです。今作っています」 無礼な言い方だったが、もう文句を言う気力もなくしていたシャーロットは、黙ってうなずいた。 それからさらにしばらくして、ようやく夕食の準備ができたとオーウェンが告げに来た。「やっと食事……。こんなに腹を減らしたことはない」 エゼルがぼそっと言う。 今までは食事の時間はきちんと決まっていて、合間に菓子をつまむのもできた。空腹がこんなにままならないものだったとは知らなかった、と彼は思う。 そして、案内された食卓の質素さに愕然とした。「本日の献立は、麦粥。レンズ豆のスープ。きゅうりとキャベツの酢漬けでございます」「たったこれだけ? 家畜小屋の豚だって、もっとマシなものを食べてるわ」 シャーロットが震える声で言った。「これで全てです」 と、オーウェン。 しかも食事は素朴な木製の器に入っていた。スプーンやフォークも木製である。豪奢な陶器と銀の食器に慣れた2人は、気味が悪くてなかなか手が出ない。 それでも空腹に負けて、まずエゼルがスプーンを取った。「お味はいかがですかな?」「…………」 エゼルは無言で首を振った。空腹だから食べられるが、王宮の料理の味と比べ物になるはずがない。 ぐぅ~、とシャーロットの腹の虫が鳴る。 気位の高い彼女は赤面して、オーウェンとメリッサを睨んだ後に麦粥を口に運んだ。「何なの、この味! 薄くて食べた気がしないわ。おいしくない!」「では、もう下げますか?」 メリッサがさっさと食器を片付けようとしたので、シャーロットは焦った。ぺこぺこのお腹は「もっと食べたい」と主張していたが、貴族令嬢のプライドが素直にそう言うのを邪魔したのだ。 彼女は仕方なくやせ我慢をした。「ええ、もう下げなさい。食べられたものじゃないわ。料理人を呼んで、罰を与えなければ」「料理人はいません。作ったのはあたしです」「……え」 料理人がいない? 予想外の答えにあっけに取られているうちに、メリッサは食器を持って行ってしま
夜、眠る前になってシャーロットはトイレに行きたいと思った。 旅の最中は、衝立と簡易便器のようなものを用意して野外で済ませていた。シャーロットにとっては初めての体験で、非常に不快だった。 だからやっと我が家――と認めるのも嫌なくらいのボロ屋だが――に腰を落ち着けて、トイレくらいは普通に済ませられると思っていたのだが。「お手洗いはこちらです」 メリッサに案内された先は、臭い・暗い・汚い・怖いと四拍子揃った離れの小屋であった。 短い渡り廊下の先にぽつんと建つ、みすぼらしい小屋である。 シャーロットはショックを受けてよろけた。ストロベリーブロンドの髪がふるふると震えている。「何よこれ……どうしてトイレがこんなに臭いの……」「汲取式ですから。この家が長く放置されていたせいで、排泄物を溜める穴が半端に埋まってしまっていますね」「水洗じゃないの!?」「当たり前でしょう。この村は水道が通っていません」「そ、そんな……」 ソラリウム王国はインフラ建築に長けた国で、王都はもちろん地方都市でも上下水道が整備されていた。 けれどドがつく田舎のシリト村はさすがに例外である。「あたし、もう帰りますね」 案内が終わったメリッサは、さっさと母屋に戻ろうとする。シャーロットは必死で引き止めた。「嫌よ! こんな怖い所に置いて行かないで!」「はぁ。じゃあ、待ってますからさっさと済ませて下さい」「うぅぅ」 トイレ小屋に入る。とても臭い。備え付けの魔道ランプは古臭くて、頼りない明かりを放っている。 やっとのことでトイレを終わらせたシャーロットは、ほとんど半泣きになっていた。 真夜中。エゼルと同じベッドに入ったシャーロットは、夫からなるべく身を離すように端に寝ていた。 王都を追放される直前に無理やり結婚させられたけれど、夫婦はまだ初夜を済ませていない。 王都を追い出されるまではそれどころではなかった。 シリト村に向かう道中は時間だけはあったが、2人ともそんな気になれなかった。 今もまた、先行きが見えない絶望感で互いに目をそらしてばかりいる。(これからどうなるのかしら) シャーロットはみじめな空腹感に苛まれながら考えた。 王都とその近郊や、整えられた別荘地しか知らなかった彼女にとって、この村と館の有様はカルチャーショックどころの騒ぎではなかった。(こ
翌朝、朝日のまぶしい光でシャーロットは目を覚ました。 少し距離を置いたベッドの端では、エゼルが背中を丸めて眠っている。 シャーロットは寝起きの喉の乾きを覚え、いつも通りベルを鳴らして使用人を呼ぼうとして――ベルもなければ来てくれるメイドもいないのだと思い出した。 不満をぶつぶつと愚痴の形で吐き出して、彼女は起き上がった。 着替えは、自分でやろうと決めた。どうせメリッサを呼んだところで、手を貸してくれないだろう。 トランクを開ける。衣装はクローゼットに吊るしていないおかげで、畳みしわが出来てしまっている。 シャーロットはイライラしながらドレスを取り出し。「どうやって着ればいいのかしら……」 完全に困ってしまった。華美で複雑な形のドレスは、いざ1人で着ようと思うとどこから袖を通していいかすら分からない。「エゼル様、エゼル様! 起きて下さいまし。着替えたいのです。お手をお貸し下さい」「起きたくない」 すぐに返事があったところを見ると、眠っていたわけではないようだ。いつも覇気のない彼だが、今日は特に平坦な声だった。「どうせ僕が手伝ったところで、役に立たない。寝かせておいてくれ。そうすれば、現実を見ずに済む……」 シャーロットは呆れた。彼女とてこのとんでもない環境の中で生き抜いて、王都に返り咲く決意をしたというのに。「そうですか。では勝手になさって。私は朝食をいただいてきます」 そう言い放って、彼女はネクリジェにガウンを羽織った姿のままで部屋を出た。 よく晴れた日のようで、屋根の破れ目から青空が見える。 水たまりも昨日より減っていたせいで、スリッパ履きの足でも転ばずに食堂までたどり着けた。 昨夜は食べそこねてしまったせいで、シャーロットのお腹は限界までぺこぺこになっていた。「おはようございます、奥様。ちょうど朝食が出来上がったところです」 食堂の隣の厨房から、メリッサが顔を出す。 シャーロットは無言で席についた。今までは使用人が椅子を引いてくれたのに、誰もいないので、仕方なく自分でやった。「オーウェンは?」 メリッサが配膳をしに来たので、シャーロットはぶっきらぼうに聞いた。「庭掃除をしています。今の季節は、雪の下に埋もれていた枯れ葉や埃が目立ちますから」「そんなもの、庭師に――」 言いかけて、シャーロットは顔をしかめた。
寝室ではエゼルがまだベッドに入ったままだった。 シャーロットは彼を無視して、先程着るのを諦めたドレスを広げた。「どう、この美しいデザイン! 銀糸の刺繍も見事でしょう。こんな田舎じゃあ一生お目にかかれない、有名デザイナーの手による一級品よ!」 ドレスは青紫を基調として、咲き誇る花を思わせる華麗なものだった。 シャーロットのストロベリーブロンドの髪、空色の瞳によく似合う出来である。 このドレスは彼女のお気に入りだった。だから色んなものを諦めて王都を出た時も、これだけはと思って持ち出したのだ。「確かに素敵なお衣装です」 メリッサがうなずいたので、シャーロットは得意な気持ちになる。「でも、これを着てどこへ行くつもりですか? こんなに裾が長いと、家の中を歩くだけで汚れます。まして土の道は歩けません」「わ、私は土の道など歩かないわ!」「領主の妻なのに? 領民と顔を合わせ、言葉を交わさないのですか」「私が行く必要はないわ! 呼びつければいいのよ」 シャーロットは顔を真赤にしながら叫んだ。ほとんど唯一、手元に残ったお気に入りのドレスを着る機会すらないなんて、みじめすぎる。「それでは領民たちは心を開きませんよ。ただでさえ、ご夫妻は評判が良くないのに」「な……」 歯に衣着せぬとはこのことだろう。メリッサの直球の言葉にシャーロットは絶句した。「無礼者!! 出ていきなさい、今すぐに!」「仰せのとおりに」 シャーロットがドアを指差すと、メリッサはさっさと行ってしまった。「ありえない……! 謝罪の一言もなし? ここに鞭があれば、何度でも打ってやるのに!」 怒りがおさまらず、部屋の中をうろうろと歩く。 エゼルはこの騒ぎにも耳を塞いで、布団をかぶっている。 しばらくして気が落ち着いてくると、また不安が襲ってきた。 シャーロット1人ではドレスを着ることすら出来ない。ネグリジェでは出かけるのも不可能だ。 それではこの薄汚い部屋で
街道の上を馬車がゴトゴトと音を立てて進んでいく。 舗装された石畳の道はとっくに終わって、今は踏み固められた粗末な土の道になっている。おかげでしばしば、ガタンと傾いたりわだちにはまりかけて止まったりする。 シャーロットは揺れる馬車の窓から、深い常緑樹の森とその奥にそびえる山脈を見て、深いため息をついた。 今は早春。未だ溶けない雪のかたまりがあちこちに残っている。「どうして侯爵令嬢たる私が、こんな片田舎の領地に押し込められないといけないのかしら。納得がいかないわ。 ねえ、聞いてらっしゃる? エゼル様」 シャーロットの隣に座る青年が、億劫そうに目を開ける。 彼は衣装こそ豪華だったが、まだ若いのに覇気のない表情が、奇妙にくたびれた雰囲気を醸し出していた。「聞いているよ。もう何度も聞いた。僕たちは王宮での立場争いに負けて、このシリト村の領主にさせられた。体のいい追放だ。 分かりきったことじゃないか……。諦めて運命を受け入れよう、シャル」 そう言ってまた目を閉じてしまった。 シャーロットは不満を込めてまた何度も文句を言ったが、もはやエゼルは聞こうともしない。 彼女は特大のため息を吐いて、ここに至るまでの経緯を思い出した―― シャーロットは名門貴族、デルウィン侯爵家の生まれで、今年18歳になる。 シャーロットはストロベリーブロンドに水色の目をした、とても可愛らしい少女。何一つ不自由することなく甘やかされて育った。 そんな彼女には、幼い頃に決められた婚約者がいる。 ソラリウム王国の第一王子、エゼルウルフ王太子である。年は同い年の18歳。 2人の仲は可も不可もなく。特別に絆が深いわけではないが、喧嘩をするほどでもない。 当人たちも周囲の大人たちも、彼らが未来の国王と王妃であると信じて疑っていなかった。 エゼルには弟王子がいた。名をデルバイスといい、兄よりも文武ともに優れた素質を示していた。 だが、安定期にあるソラリウム王国は、長子相続の慣例を破ってまで優秀な弟を取り立てようとはしなかった。 転機となったのは、デルバイスが自らの未来の妻としてセレアナという少女を連れてきたこと。 セレアナは莫大な魔力量を誇る「水の聖女」だった。 ソラリウム王国では、高い魔法の素質と自然の化身たる精霊と交信する能力を持つ女性を「聖女」と呼ぶ。 聖女は国
寝室ではエゼルがまだベッドに入ったままだった。 シャーロットは彼を無視して、先程着るのを諦めたドレスを広げた。「どう、この美しいデザイン! 銀糸の刺繍も見事でしょう。こんな田舎じゃあ一生お目にかかれない、有名デザイナーの手による一級品よ!」 ドレスは青紫を基調として、咲き誇る花を思わせる華麗なものだった。 シャーロットのストロベリーブロンドの髪、空色の瞳によく似合う出来である。 このドレスは彼女のお気に入りだった。だから色んなものを諦めて王都を出た時も、これだけはと思って持ち出したのだ。「確かに素敵なお衣装です」 メリッサがうなずいたので、シャーロットは得意な気持ちになる。「でも、これを着てどこへ行くつもりですか? こんなに裾が長いと、家の中を歩くだけで汚れます。まして土の道は歩けません」「わ、私は土の道など歩かないわ!」「領主の妻なのに? 領民と顔を合わせ、言葉を交わさないのですか」「私が行く必要はないわ! 呼びつければいいのよ」 シャーロットは顔を真赤にしながら叫んだ。ほとんど唯一、手元に残ったお気に入りのドレスを着る機会すらないなんて、みじめすぎる。「それでは領民たちは心を開きませんよ。ただでさえ、ご夫妻は評判が良くないのに」「な……」 歯に衣着せぬとはこのことだろう。メリッサの直球の言葉にシャーロットは絶句した。「無礼者!! 出ていきなさい、今すぐに!」「仰せのとおりに」 シャーロットがドアを指差すと、メリッサはさっさと行ってしまった。「ありえない……! 謝罪の一言もなし? ここに鞭があれば、何度でも打ってやるのに!」 怒りがおさまらず、部屋の中をうろうろと歩く。 エゼルはこの騒ぎにも耳を塞いで、布団をかぶっている。 しばらくして気が落ち着いてくると、また不安が襲ってきた。 シャーロット1人ではドレスを着ることすら出来ない。ネグリジェでは出かけるのも不可能だ。 それではこの薄汚い部屋で
翌朝、朝日のまぶしい光でシャーロットは目を覚ました。 少し距離を置いたベッドの端では、エゼルが背中を丸めて眠っている。 シャーロットは寝起きの喉の乾きを覚え、いつも通りベルを鳴らして使用人を呼ぼうとして――ベルもなければ来てくれるメイドもいないのだと思い出した。 不満をぶつぶつと愚痴の形で吐き出して、彼女は起き上がった。 着替えは、自分でやろうと決めた。どうせメリッサを呼んだところで、手を貸してくれないだろう。 トランクを開ける。衣装はクローゼットに吊るしていないおかげで、畳みしわが出来てしまっている。 シャーロットはイライラしながらドレスを取り出し。「どうやって着ればいいのかしら……」 完全に困ってしまった。華美で複雑な形のドレスは、いざ1人で着ようと思うとどこから袖を通していいかすら分からない。「エゼル様、エゼル様! 起きて下さいまし。着替えたいのです。お手をお貸し下さい」「起きたくない」 すぐに返事があったところを見ると、眠っていたわけではないようだ。いつも覇気のない彼だが、今日は特に平坦な声だった。「どうせ僕が手伝ったところで、役に立たない。寝かせておいてくれ。そうすれば、現実を見ずに済む……」 シャーロットは呆れた。彼女とてこのとんでもない環境の中で生き抜いて、王都に返り咲く決意をしたというのに。「そうですか。では勝手になさって。私は朝食をいただいてきます」 そう言い放って、彼女はネクリジェにガウンを羽織った姿のままで部屋を出た。 よく晴れた日のようで、屋根の破れ目から青空が見える。 水たまりも昨日より減っていたせいで、スリッパ履きの足でも転ばずに食堂までたどり着けた。 昨夜は食べそこねてしまったせいで、シャーロットのお腹は限界までぺこぺこになっていた。「おはようございます、奥様。ちょうど朝食が出来上がったところです」 食堂の隣の厨房から、メリッサが顔を出す。 シャーロットは無言で席についた。今までは使用人が椅子を引いてくれたのに、誰もいないので、仕方なく自分でやった。「オーウェンは?」 メリッサが配膳をしに来たので、シャーロットはぶっきらぼうに聞いた。「庭掃除をしています。今の季節は、雪の下に埋もれていた枯れ葉や埃が目立ちますから」「そんなもの、庭師に――」 言いかけて、シャーロットは顔をしかめた。
夜、眠る前になってシャーロットはトイレに行きたいと思った。 旅の最中は、衝立と簡易便器のようなものを用意して野外で済ませていた。シャーロットにとっては初めての体験で、非常に不快だった。 だからやっと我が家――と認めるのも嫌なくらいのボロ屋だが――に腰を落ち着けて、トイレくらいは普通に済ませられると思っていたのだが。「お手洗いはこちらです」 メリッサに案内された先は、臭い・暗い・汚い・怖いと四拍子揃った離れの小屋であった。 短い渡り廊下の先にぽつんと建つ、みすぼらしい小屋である。 シャーロットはショックを受けてよろけた。ストロベリーブロンドの髪がふるふると震えている。「何よこれ……どうしてトイレがこんなに臭いの……」「汲取式ですから。この家が長く放置されていたせいで、排泄物を溜める穴が半端に埋まってしまっていますね」「水洗じゃないの!?」「当たり前でしょう。この村は水道が通っていません」「そ、そんな……」 ソラリウム王国はインフラ建築に長けた国で、王都はもちろん地方都市でも上下水道が整備されていた。 けれどドがつく田舎のシリト村はさすがに例外である。「あたし、もう帰りますね」 案内が終わったメリッサは、さっさと母屋に戻ろうとする。シャーロットは必死で引き止めた。「嫌よ! こんな怖い所に置いて行かないで!」「はぁ。じゃあ、待ってますからさっさと済ませて下さい」「うぅぅ」 トイレ小屋に入る。とても臭い。備え付けの魔道ランプは古臭くて、頼りない明かりを放っている。 やっとのことでトイレを終わらせたシャーロットは、ほとんど半泣きになっていた。 真夜中。エゼルと同じベッドに入ったシャーロットは、夫からなるべく身を離すように端に寝ていた。 王都を追放される直前に無理やり結婚させられたけれど、夫婦はまだ初夜を済ませていない。 王都を追い出されるまではそれどころではなかった。 シリト村に向かう道中は時間だけはあったが、2人ともそんな気になれなかった。 今もまた、先行きが見えない絶望感で互いに目をそらしてばかりいる。(これからどうなるのかしら) シャーロットはみじめな空腹感に苛まれながら考えた。 王都とその近郊や、整えられた別荘地しか知らなかった彼女にとって、この村と館の有様はカルチャーショックどころの騒ぎではなかった。(こ
やがて夕暮れ時が過ぎて夜になった。 薄暗い中で明かりの灯し方も分からず、シャーロットとエゼルがやきもきしていると、メリッサがやってきて部屋を明るくしてくれた。 メリッサが持ってきたのは、魔道具のライトだった。王都で流通しているものよりずいぶん古い型である。「お腹がすいたわ。晩餐はまだ?」「まだです。今作っています」 無礼な言い方だったが、もう文句を言う気力もなくしていたシャーロットは、黙ってうなずいた。 それからさらにしばらくして、ようやく夕食の準備ができたとオーウェンが告げに来た。「やっと食事……。こんなに腹を減らしたことはない」 エゼルがぼそっと言う。 今までは食事の時間はきちんと決まっていて、合間に菓子をつまむのもできた。空腹がこんなにままならないものだったとは知らなかった、と彼は思う。 そして、案内された食卓の質素さに愕然とした。「本日の献立は、麦粥。レンズ豆のスープ。きゅうりとキャベツの酢漬けでございます」「たったこれだけ? 家畜小屋の豚だって、もっとマシなものを食べてるわ」 シャーロットが震える声で言った。「これで全てです」 と、オーウェン。 しかも食事は素朴な木製の器に入っていた。スプーンやフォークも木製である。豪奢な陶器と銀の食器に慣れた2人は、気味が悪くてなかなか手が出ない。 それでも空腹に負けて、まずエゼルがスプーンを取った。「お味はいかがですかな?」「…………」 エゼルは無言で首を振った。空腹だから食べられるが、王宮の料理の味と比べ物になるはずがない。 ぐぅ~、とシャーロットの腹の虫が鳴る。 気位の高い彼女は赤面して、オーウェンとメリッサを睨んだ後に麦粥を口に運んだ。「何なの、この味! 薄くて食べた気がしないわ。おいしくない!」「では、もう下げますか?」 メリッサがさっさと食器を片付けようとしたので、シャーロットは焦った。ぺこぺこのお腹は「もっと食べたい」と主張していたが、貴族令嬢のプライドが素直にそう言うのを邪魔したのだ。 彼女は仕方なくやせ我慢をした。「ええ、もう下げなさい。食べられたものじゃないわ。料理人を呼んで、罰を与えなければ」「料理人はいません。作ったのはあたしです」「……え」 料理人がいない? 予想外の答えにあっけに取られているうちに、メリッサは食器を持って行ってしま
ソラリウム王国は島国である。島といってもかなりの広さを誇り、中央部付近には山脈が走っている。 エゼルとシャーロットの領地とされたシリト村は、島の北西部、山脈のふもとにある辺鄙な場所だった。 山脈に抱かれるような場所にある村は、畑に適した平地があまりない。 また、奥深い森がすぐそばまで迫っているために、村は狭い耕作地でほそぼそと生計を立てていた。 北の地にあるため森は背の高い常緑樹が多く、昼なお暗い鬱蒼とした雰囲気になっていた。「何よ、これ! 私にこんな所に住めって言うの!?」『領主の館』に到着して、シャーロットは不満の叫びを上げた。エゼルも呆然としている。 そこはひどく古めいた建物だった。2階建てで、大きさだけならば貴族の邸宅と言えなくもない。 ただしひと目見て分かるほどに荒れ果てていた。 石造りの壁はところどころが崩れ、枯れた雑草が顔を覗かせている。放置しておけば今年も元気に芽を出すだろう。 古臭いテラコッタの瓦葺きの屋根は、遠目に見ても破れ目があった。 庭の手入れも一切されていない。まさに荒屋である。 わがままお嬢様のシャーロットでなくとも、逃げ出したくなる有様だった。「シリト村にようこそ。王子ご夫妻様」 あばら屋、もとい領主の館のまえに2人の人影が立っている。 年配の男性が一歩前に出て、あまり丁寧とは言えない礼をした。「私はオーウェン。王都より派遣され、執事の役を務める者です。こちらはメイドのメリッサ。 私ども2人と村人たちの手を借りて、ご夫妻のお世話をいたします」 オーウェンに示されたメリッサが、やはりやや雑なお辞儀をした。黒髪にくすんだ青い目をした、愛想のない娘だった。「執事にメイドがたった1人!? そんなので暮らしていけるわけないじゃない。衣装係は? 入浴の付き添いと美容係は? こんな幽霊屋敷でメイドが1人だなんて、どうするの!」 シャーロットは興奮して言い立てたが、オーウェンは涼しい顔で受け流した。「さてはて。雨露がしのげる家があり、多少の人手もある。これ以上、いったい何を望むと言うのです」「だから……!」「シャル、もういい、やめろ。僕は長旅で疲れた。早く休みたい」 エゼルがうんざりとした口調で言った。「では、こちらへ。ご夫妻の居室については、最低限の修繕を済ませておりますので」 馬車の御者から荷
街道の上を馬車がゴトゴトと音を立てて進んでいく。 舗装された石畳の道はとっくに終わって、今は踏み固められた粗末な土の道になっている。おかげでしばしば、ガタンと傾いたりわだちにはまりかけて止まったりする。 シャーロットは揺れる馬車の窓から、深い常緑樹の森とその奥にそびえる山脈を見て、深いため息をついた。 今は早春。未だ溶けない雪のかたまりがあちこちに残っている。「どうして侯爵令嬢たる私が、こんな片田舎の領地に押し込められないといけないのかしら。納得がいかないわ。 ねえ、聞いてらっしゃる? エゼル様」 シャーロットの隣に座る青年が、億劫そうに目を開ける。 彼は衣装こそ豪華だったが、まだ若いのに覇気のない表情が、奇妙にくたびれた雰囲気を醸し出していた。「聞いているよ。もう何度も聞いた。僕たちは王宮での立場争いに負けて、このシリト村の領主にさせられた。体のいい追放だ。 分かりきったことじゃないか……。諦めて運命を受け入れよう、シャル」 そう言ってまた目を閉じてしまった。 シャーロットは不満を込めてまた何度も文句を言ったが、もはやエゼルは聞こうともしない。 彼女は特大のため息を吐いて、ここに至るまでの経緯を思い出した―― シャーロットは名門貴族、デルウィン侯爵家の生まれで、今年18歳になる。 シャーロットはストロベリーブロンドに水色の目をした、とても可愛らしい少女。何一つ不自由することなく甘やかされて育った。 そんな彼女には、幼い頃に決められた婚約者がいる。 ソラリウム王国の第一王子、エゼルウルフ王太子である。年は同い年の18歳。 2人の仲は可も不可もなく。特別に絆が深いわけではないが、喧嘩をするほどでもない。 当人たちも周囲の大人たちも、彼らが未来の国王と王妃であると信じて疑っていなかった。 エゼルには弟王子がいた。名をデルバイスといい、兄よりも文武ともに優れた素質を示していた。 だが、安定期にあるソラリウム王国は、長子相続の慣例を破ってまで優秀な弟を取り立てようとはしなかった。 転機となったのは、デルバイスが自らの未来の妻としてセレアナという少女を連れてきたこと。 セレアナは莫大な魔力量を誇る「水の聖女」だった。 ソラリウム王国では、高い魔法の素質と自然の化身たる精霊と交信する能力を持つ女性を「聖女」と呼ぶ。 聖女は国